千一番目の英雄としてのかばんちゃん (文字起こし)

書き起こした人まえがき

本記事は,以下の動画の内容を文字に起こしたものです.

同作者のKemonomyth全訳 けものフレンズと単一神話論 (文字起こし)もご覧ください.

はじめに

けものフレンズは世界中を熱狂の渦に包んだ.その娯楽物語としての素晴らしさについては以前の動画でその一端を説明することができたと思いたい.

しかし,依然としてけものフレンズはあまりにも過小評価されている.私は本気で,けものフレンズは人類史上最高の物語であると信じており,この動画はそれを証明するためのものである.

言い換えれば,この動画は,「けものフレンズはなぜ人々の心を惹くのか」という問いへの究極の答えの一つを提案するものだ.

この目標を果たすにあたり,この動画では,かばんちゃんは英雄であり,けものフレンズは神話であるということを神話学的な観点から示す.その過程で,けものフレンズの魅力を再確認することにもなるだろう.

さっそく脱線

ところでこの動画の製作中に,同じくirodoriのケムリクサが読売新聞で取り上げられ,たつき監督のインタビューが載った.

たつき監督曰く,1期では「面白くするために,できる全てのことをやった」ということだ.この言葉は,(千代ちゃんに恐怖する)考察班にとってはこの上ない福音である.

最近過労死寸前の千代ちゃんは「脚本の人そこまで考えてないと思うよ」と言うが,この言葉はある意味で正しい.

私もこの動画で考察した内容をたつき監督が全て意識的にやったとは思えないし,仮に全て計算の内だったとしたら,もはやそれは脚本の「人」ではない.

あらかじめ注意しておくと,この動画はこれまでのものに比べ特に冷奴成分が大きい.しかし,できるだけ美味しい冷奴を目指しているので,どうか楽しんでいただきたい.

英雄神話

というわけで,そろそろ本題に入ろう,まずは,そもそも英雄神話とは何か,ということを説明する.

神話は主に創世神話と英雄神話に二分できる.創世神話はこの世界の成り立ちを説明するものだ.一方で,英雄神話とは「英雄の特異な出生、活躍、遍歴、苦難の打開などを説く神話」である.

スサノオの伝説

広く知れ渡っている英雄の例として,日本神話のスサノオを取り上げよう.ざっくりスサノオ方面の話を要約すると,こんな感じになる.

暴れすぎて高天原から追放処分となったスサノオは,出雲国に降った.そこで,スサノオはおじいさんとおばあさんに出会う.

おじいさんはアシナヅチ,おばあさんはテナヅチという.彼らが泣いているので,疑問に思ったスサノオが事情を聞いた.

彼らにはクシナダヒメという娘がいる.実はクシナダヒメの他に7人の娘がいたが,毎年ヤマタノオロチという怪物に一人ずつ食われてしまったそうだ.

そして,今年もその怪物が襲来する時期が近づきつつある.ちなみに,ヤマタノオロチは8つの頭と8つの尾を持つ「竜」であり,雨季に氾濫を起こす河川の擬人化と言われている.

スサノオはクシナダヒメを妻にもらうことを条件に,ヤマタノオロチ退治を請け負う.さて,スサノオはどうやってヤマタノオロチと戦ったか.

彼はまず,アシナヅチとテナヅチにこう命じた.ヤシオリという強い酒を醸し,8つの桶に盛って待機するように,と.

いよいよヤマタノオロチが現れると,スサノオの目論見通り,ヤマタノオロチは8つの頭で8つの桶からヤシオリを飲み干し,急性アルコール中毒で昏睡状態に陥った.

すかさずスサノオは十拳剣を抜いてこの大蛇を切り散らし,これを退治することに成功した.スサノオは約束通りクシナダヒメを妻にもらい,その後幸せに暮らしましたとさ.

一見すると何の変哲もない,日本のよくありそうな鬼退治物語なのだが,実はスサノオに関する物語にも,西洋文化で生まれた英雄とまったく同じ特徴がある.キーワードは「行きて帰る旅」「通過儀礼」である.

この動画では,かばんちゃんがスサノオのような彼ら英雄の一人であることを示そうとしている.つまり,けものフレンズが先に挙げた物語と同じ性質を持っていることを指摘したい.

神話であることの意味

ここではっきりさせておきたいこととして,「けものフレンズは神話である」ことを示す意味は,単なるジャンル分けに留まらない.

心理学者ユングは,神話を,人類共通の集合的無意識がイメージの形で意識に現れたものと解する.

つまり,神話的な性質を持つ物語というのは受け手の所属する国籍や文化に関わらず,全ての人類に共感され,その心を動かす力を持ち得るということだ.

だからこそ,有名な英雄達は数千年もの間口承され続け,現代の我々も知る所となっている.そして,この動画はけものフレンズもそのような物語であることを示そうとするものだ.

英雄の旅

まずは,「英雄の旅」という概念を説明しておこう.これはジョーゼフ・キャンベルが「」の中で紹介した物語の型である.

彼は世界中の神話を研究した結果,いくつもの物語がただ一つの型に当てはまっていることを突き止めた.その型というのが,「英雄の旅」である.

(出立)英雄はごく日常の世界から,自然を超越した不思議の領域へ冒険に出る.(イニシエーション)そこでは途方もない力に出会い,決定的な勝利を手にする.(帰還)そして仲間に恵みをもたらす力を手に,この不可思議な冒険から戻ってくる.

要するに「日常の世界から特別な世界へと旅立ち,ボスを倒して報酬を手に再び帰ってくる」というものだ.もう少し詳しく見ていこう.

「英雄の旅」では,物語はおよそ12のステージに分かれる.

物語は0時「日常の世界」からスタートする.英雄は1時に「冒険への召命」を受け,2時には「賢者との出会い」を果たす.そうやって準備を整えて,非日常の世界へと3時に「旅立」つ.

非日常の世界では,4時には「試練」が襲い,5時には最も危険な領域へと「接近」する.6時には「危機」が訪れ,ここで英雄は死にかけるか,一度死んで復活する.

復活した英雄は危機を脱し,7時に「宝」を得る.英雄は8時にその「結末」の余韻に浸るが,すぐに9時「現世への帰還」を成さねばならない.

冒険を経た英雄は,得た宝を用いてこれまでと違う新たな自分へと10時に「新生」し,物語の謎や対立が全て11時に「解決」されたところで,12時,英雄は再び「日常の世界」へと帰る.

けものフレンズは概ねこの「英雄の旅」の型に従っている.物語全体についてもそうだが,各話にも同様の構造が存在し,特に3話はこの類型に極めて近い構造を取っているのが面白い点である.

私は11話12話を除けば3話が妙にカタルシスがあって一番好きなのだが,その理由はここにあるのかもしれない.

この類型に特にきっかり当てはまる物語としては「スターウォーズ」「ダヴィンチ・コード」「インデペンデンス・デイ」「ハンガー・ゲーム」などがある.

少なくともスターウォーズとダヴィンチ・コードに関しては,製作者が「英雄の旅」を参考にしたと明言している.

なお,「英雄の旅」は以前の動画で触れた「三幕構成」の発展型と捉えることもできる.

その場合,3時までが第一幕,4時から9時までが第二幕,10時から12時までが第三幕ということになるだろうか.

「英雄の旅」を創作で活用したい場合には,「神話の法則 ―ライターズ・ジャーニー」をおすすめしたい.「千の顔を持つ英雄」の内容が噛み砕いてわかりやすく紹介されている.

更に言うと,「英雄の旅」は自己啓発的な方向で引用されることもある.つまり,我々一人一人も英雄であって,苦難の先には必ず宝があるぞ,みたいな感じだ.

それはそれとして,これでひとまず,構造の面でけものフレンズの英雄神話性を示せたことになる.

通過儀礼

ここからは,ジョーゼフ・キャンベルにも大きな影響を与えたユングの一番弟子,エーリッヒ・ノイマンの「意識の起源史」にある主張をベースに話をすすめる.

こちらも,「千の顔を持つ英雄」に並び立つ名著らしい.が,内容は極めて難解であり,きちんと説明しようとしたら丸一日かかってしまうため,この動画ではその主張の表面だけをなぞるに留める.

英雄は,きわめて困難な通過儀礼や,神秘と驚異に満ちた未知の段階へのイニシエーションを受ける不屈の精神の擬人化である.英雄は,厳しい労苦の試練に耐える精神の擬人化であり,象徴的な夜と冬の過酷さに不撓の精神をもって立ち向かい生き延びる能力の擬人化である.

英雄は,厳しい労苦の試練に耐える精神の擬人化であり,象徴的な夜と冬の過酷さに不撓の精神をもって立ち向かい生き延びる能力の擬人化である.

英雄神話が描くのは,実のところ子供が大人になるための「通過儀礼」である.自然(母なるもの)から生まれて間もない子供は「竜」とのたたかいを経て,文明社会の一員としての自覚(父なるもの)を自身の内部に確立する.

この儀式によって,子供は大人になり,社会に受け入れられる.

いきなり母なるもの,父なるものというワードを使ったが,これは一般的な意味での親を指しているのではなく,「母性的自然・父性的文明」という対立で見た時のどちら陣営かということを表している.

では,けものフレンズにおいてはどうか.

かばんちゃんの両親と言えるものが,強いて言えばサーバルちゃんとミライさんであることに異論は無いだろう.しかし,どちらが母でどちらが父かを考えると,ここに一つの大きなひねりが存在する.

母と自然を同一視するのは,根本的に子供は母親の胎内から生まれるからである.

その意味では,どうやっても産みの親は母,育ての親は父,という役割分担が生じる.このアナロジーで言えば,ミライさんが母,サーバルちゃんが父ということになる.

しかし一方で,「母性的自然・父性的文明」という対立軸で見るならば,サーバルちゃんが母,ミライさんが父だと考えるほかない.直感的にも,こちらの方が正しいように思える.

このひねりが,かばんちゃんを,典型的ながらも歴史上存在した全ての例と異なる,全く新しい英雄にしている.

戴冠の儀

といきなり言ってもわからないと思うので,11話の戴冠の儀を根幹に,もう少し具体的に見ていきたい.

戴冠の儀というからには「冠」の授受が生じたわけだが,ではこの儀式で誰が,誰から受け取ったのかということについて,それぞれの持つ意味を考えることで,このシーンを解剖していく.

誰が受け取るか

では早速,「誰が」の話から始めよう.このシーンでの受け取り手はつまり,かばんちゃんである.かばんちゃんは何者なのだろうか.

かばんちゃんは他の多くの神話に描かれる英雄と共通の要素を持っている.その最たるものが.「彷徨える跛行者」と呼ばれるキャラクター類型だ.

「彷徨える跛行者」というのは新城カズマが「物語工学論」で名付けた類型である.

跛行とは釣り合いが取れないままに歩く,びっこを引く状態を表している.つまり,「彷徨える跛行者」とは,バランスの取れない状態で彷徨い歩く者,ということだ.

そして,この類型に属するキャラクターは,その彷徨の果てにバランスを取り戻すことが定番となっている.

この類型の代名詞的なキャラクターが,以下のスフィンクスの謎掛けを解いたオイディプスである.

一つの声をもちながら,朝には四つ足,昼には二本足,夜には三つ足で歩くものは何か.シンキングタイム3……2……1……

ヤギと答えた者はスフィンクスに喰われて死ぬ.正解はヒトである.

ざっくりあらすじを説明すると,オイディプスは人類最初の安楽椅子探偵として,自身の都市国家にかけられた呪いの原因を突き止めようとするが,最終的にそれが自分自身であることが発覚する,という物語だ.

ちなみにかばんちゃんも10話で探偵ごっこを行い,その最終的な解答は「ぼく」だった.「ラッキーさん」ではなくあえて自分自身を指したのは,もしかするとオイディプスを示唆するためだった?(冷奴)

話を戻そう.かばんちゃんが彷徨い歩いていることについては明らかだが,では「バランスの取れていない」要素は何だろうか.それは,かばんちゃんの内外に一つずつ現れている.

まずは内面について.1期が描いたジャパリパークの住人「フレンズ」は,「動物がヒト化したもの」である.その中で唯一かばんちゃんのみが,「ヒトがヒト化したもの」となっている.

つまり,かばんちゃんにはけもの(動物)性が欠如しており,そこがバランスを欠いた点になっている.

そして外見では,帽子の羽飾りが一つしかないことが,左右の対称性を損ねている.

つまり,かばんちゃんの跛行の原因は,「ヒトとけものの対称性の欠如」および「帽子の羽飾りの対称性の欠如」にある.

先程述べたとおり,「彷徨える跛行者」は彷徨の果てにその対称性を取り戻す.もう何を言おうとしているかわかると思うが,かばんちゃんが対称性を回復する瞬間,それが,戴冠の儀になっているのだ.

誰から受け取ったか

次に,かばんちゃんは誰から受け取ったのか,ということを考える.戴冠の儀では,かばんちゃんは赤い羽根飾りが付いたことで対称性が回復した帽子を受け取る.

アライさんが赤い羽根飾りを持ってきたからこそ,帽子の対称性は回復した.そして,アライさんはサーバル一行の旅の軌跡をなぞり,各地のフレンズによるかばんさん評を聞いてきた存在でもある.

つまり,赤い羽根飾りとそれを持ってきたアライさんは,かばんちゃんがパークガイドの座に相応しいことを承認する稟議書,あるいはけものを代表してそのことを裁定する者としての役割を持っている.

サーバル一行とアライさん一行は,それぞれが持ち寄った知識,道具,能力を発揮し,「アンチセルリウムフィルターの復旧」という神から与えられた試練を乗り越える.

そして,けもの達の承認を受けて,父なるものとしてのボスは,かばんちゃんを「ヒトとけものの対称性を回復した存在」として認める.

「暫定パークガイドに設定,権限を付与」の言葉に強い感動を受けるのは,それが子供であったかばんちゃんがパークという世界全体から大人として認められた瞬間だからだ.

あの言葉は,言い換えれば「大人として認める」ということだ.親のような気持ちで見守っていた視聴者にとっては,それは子供の成人式のようなものであり,より神話的なタームを使うならば「通過儀礼の完了」を意味する.

つまり,戴冠の儀のシーンで第二に象徴されているのは,ヒトとけもの,その両親からの承認という点である.

どこで受け取ったか

すこし話は逸れるが,最後に,どこで戴冠の儀は行われたのか,ということを考えたい.ここにも,様々な意味が含まれている.

戴冠の儀はどこで行われたか?直接的な答えとしては,(1期で旅した)ジャパリパークの中心に位置する火山の山頂であるが,この場所はあらゆる因縁が集まる「神聖な場所」となっている.

第一に,この地点は山頂である.ここに,そもそも特別な意味が含まれる.多くの神話で,神との対話は山頂で行われてきた.モーセが神から十戒を授かったのもシナイ山山頂であった.

第二に,この地点は地理的にも,象徴的にも世界の中心点である.

実際,火山から噴出したサンドスターが動物に当たることでこの世界の生命であるフレンズが生まれると同時に,火山はフレンズに死をもたらすセルリアンも生み出している.

その意味で,火山はこの世界の全ての物事を善悪関係なく生み出す地点,世界の軸となっている.そしてこの地点は,神と同一視される.

どうやら,はるか昔から人間は世界を回転する円盤のように捉えていたらしい.そして,その回転の中心は動きながらも静止する特異点であり,「動かざる動かし手」としての神をそこに見出していた.

世界軸は,一種のワームホールとしても捉えられる.「中心としての山は,異次元世界への通路であり,神々との交流を可能にする」(世界シンボル辞典)

「廻る世界の静止の点に.肉体があるでもなく,ないでもなく.出発点も方向もなく,その静止の点――そこにこそ舞踊がある,だが,抑止も運動もない.それは固定とは言えない,そこで過去と未来が一つに収斂するのだ.(略)」

というように,回転の中心は過去と現在と未来が一つに交わる点でもある.だからこそ,かばんちゃんは過去から,ミライさんの権限を時間を超えて譲り受けることができた.

これは本当に個人的なイメージだが,けものフレンズとは,かばんちゃんがキョウシュウエリアという世界を一巡し,世界に回転を生み出すことで,その中心に過去と現在と未来を繋ぐ時空トンネルを作る物語だったのではないか.

そう考えると,ケムリクサと通底するものも見えてくる.わかばくんによって世界が回りだしたように,かばんちゃんもジャパリパークという静止した世界に動きをもたらした存在なのではないか.

同時に彼らは,作中で語られるメタモルフォーゼに対して「不動」な存在である.かばんちゃんはde-friendizeしてもヒトのままであったし,wakabaくんもざっくり言えば同様である.(ネタバレ回避)

そういったことから,たつき監督は彼らをともに半神半人の英雄として描いたのではないか,というように思っている.

閑話休題.つまり,戴冠の儀は,ヒト性しか持たないかばんちゃんが,サーバルちゃん達フレンズからけもの性を得たことを,母性的自然の代表であるアライさんと父性的文明の代表であるボスから承認されるための儀式だったのだ.

これは,典型的な英雄神話と完全に一致しつつもその全てが反転している.通常の英雄神話は,自然から生まれた子供が文明社会に馴染んでいく通過儀礼<イニシエーション>の過程を描く.

つまり,けもの(母)的な存在である子供が,文明(父)性を獲得し,大人の社会に受け入れられる様をベースとする.

対して,かばんちゃんの物語は,ヒトがヒト化したものという限りなく人間的なものが自然に馴染み,受け入れられる過程を描く.

これが,けものフレンズのとんでもない所であり,他の全ての英雄神話と一線を画す点であると考える.

また,けものフレンズにはもう一つ,それまでの英雄神話を否定している部分がある.

それは,これまでさんざん説明してきた,「ヒトとけものの対立構造」を破壊したという点である.

戴冠の儀の後,かばんちゃんは大型セルリアンと対峙する.かばんちゃんがサーバルちゃんを救出したときには帽子が脱げる.

忘れてはいけない.帽子は,かばんちゃんがヒト性とけもの性を獲得した証拠であった.それを失った状態で,かばんちゃんは辞世の句を述べる.

ここに象徴されているのは,かばんちゃんはヒトとしてでなく,けものとしてでもなく,あくまでかばんという一人のフレンズとしてサーバルちゃんを救おうとしたということだ.

「暫定パークガイド」であったかばんちゃんは,あと一歩のところで大人になることを捨て,「けものフレンズ」という種族への仲間入りを果たす.

けものフレンズとは,「ヒト」として生まれたかばんちゃんが,「けもの」達の社会<けものフレンズ>を支配することを拒絶し,むしろそこに受け入れられるまでを描いた通過儀礼(イニシエーション)の物語だったのだ.

まとめ

というわけで,かばんちゃんが神話的な意味での英雄であること,そしてけものフレンズがこれまでの物語とは一線を画した英雄神話であることを説明した.

「英雄の探求の旅がわれわれの心を絶えず奪うのは,生きるべき生の質<クォリティオブライフ>にかかわるからであり,また異なった文化の多様な形態に映されてきた飽くなき生の探求の統合化にかかわるからである.

英雄は明確に規定できる人間の姿をあらわすのではなく,むしろ達成すべき神話的典型をあらわす.」(ドロシー・ノーマン「英雄 ・イメージ・象徴」)

けものフレンズが多くの人の心に染み入った理由の一つは,それが英雄の物語であるからに違いない.

そして,かばんちゃんという新たな英雄の誕生を見た我々は,かばんちゃんと同じヒトであることに誇りを持ちながらも,けもの達と同じ命あるものの一員としての自覚を持って,これからを善く生きようとするのだ.

お疲れさまでした

われらは探求を已めることなし,すべてわれらの探検の終わりはわれらの出発の地に至ること,しかもその地を初めて知るのだ. (T.S.エリオット 「四つの四重奏」 岩崎宗治訳)

“We shall not cease from exploration, and the end of all our exploring will be to arrive where we started and know the place for the first time.”